海外への邦人渡航者数は急増しており、昨年は1,753万人であった。また、海外に進出している企業は、昨年で約3万5,000社である。海外に渡航する場合、テロ、誘拐、武力紛争、シージャック、ハイジャック、クーデター、内乱、暴動、新型インフルエンザ等、様々な脅威に備える必要がある。テロについては、近年、イスラム過激派による自爆テロの脅威が増大している。また、人が多く集まるソフトターゲットを標的とするテロも増加傾向にあり、どこでテロが起こるか分からない状況である。先進国においても、ニューヨーク、ロンドン、マドリードの中心部でもテロが発生している。
海外での脅威への備えは、自助努力が基本である。制度的には、主権国家において、外国人も含め人を保護又は支援する義務は、基本的にはその国にある。従って、外国で邦人が何らかのトラブルに巻き込まれても、日本政府ができることには制約がある。しかし、残念ながら国によっては十分な保護や支援を受けられないかもしれない。よって、企業は、現地の事情を十分に踏まえた上で外国に進出しなければならない。
日本の在外公館に何ができるのかについては、パンフレット「海外で困ったら 大使館・総領事館のできること」で詳しく説明されているが、若干補足的に説明する。第一に、不測の事態が生じた際等に当該国の当局に種々の働きかけを行うという意味での外交努力が挙げられる。第二に、「外務省 海外安全ホームページ」等を通じて渡航情報を発出し、海外の安全に関する最新の情報を迅速に提供するべく努めている。第三に、189の在外公館と外務省がネットワークを形成し、24時間体制で直ちに緊急事態に対応できるようにしている。その1つの重要な前提として、海外に渡航される際には、是非とも在外公館に在留届を提出して欲しい。これにより、治安に関する情報提供や緊急時における安否確認も可能になる。同時に、その国を転出する際には、その旨を在外公館に連絡していただきたい。なお、在留届はインターネットでも提出できる。
テロが発生した際、外務省・在外公館は事件に関する情報収集や現地政府との連絡・折衝等を行い、ご家族やメディアに対して事件及び邦人の安否に関する情報提供等を行う。誘拐の場合にも、現地政府との連絡・折衝、関連情報の提供、被害者の支援等を行う。ただし、誘拐事件はマスコミへの対応も含め扱いが難しいとの事情がある。いずれにしても、事件が起きないように予防していくことが重要である。
鳥インフルエンザがヒトに感染した国で、特に死亡者が多いのはインドネシアの81名、ベトナムの93名である。しかし、ウイルスが本当に広がって、ヒトからヒトに容易に感染し、毒性が強いという状況にはなっていないと考えられている。WHOが新型インフルエンザの状況をフェーズに分類している。それによれば、現在はフェーズ3であり、ヒトへの感染は確認されているが、ヒトからヒトへの感染はないのが現状である。
仮にヒトからヒトへ容易に感染するようになり、かつその毒性が強い状況が生じた場合、今のところ、外務省は、(i)WHOによる勧告等、(ii)発生国の状況(感染状況、医療体制等)、(iii)主要国の動向(注:ただし、対応が分かれる可能性もある)という3つの判断基準を用いることになる。第一のWHOの勧告等についてであるが、かかる状況が発生した場合、必ずしも邦人だけが避難すれば良いというものではない。場合よっては、いかに病気を発生国から拡大しないようにするかが極めて重要になり、その点に関する世界的な戦略はWHOが医学的見地から決定することになる。従って、WHOが何を勧告するかが重要になる。もっとも、WHOの勧告は、様々な検査等を行う関係でなかなか行われない可能性もある。そのような場合に無策であるわけにはいかないので、外務省としては、フェーズ4の直前には、当該国に危険情報「渡航の是非を検討してください。」を発出することになる。その際、在留邦人に対しては、感染例の発見によって渡航制限が行われる可能性を注意喚起する。いずれにしても、実際の状況に合わせてWHOの勧告等を踏まえることになる。第二の発生国の状況は、発展途上国である場合と先進国である場合とで大きく異なる。例えば、先進国の場合には医療体制が整っているため、邦人は現地の医療機関に行っていただくということで問題がないが、発展途上国の場合には必ずしもそうはいかない。第三の主要国の動向については、先述のとおり、日本だけが単独で行動すれば、かえって病気の蔓延に繋がる可能性があるので、一緒に判断して対応することを想定している。
なお、他の主要国も、新型インフルエンザに関する注意喚起を行っている。また、国内で発生した場合のことであるが他の省庁も対応を行っており、日本政府一体として新型インフルエンザへの取り組みを行っている。
まず、イスラム圏について述べる。地域紛争で問題になっているのはインドネシア東部、フィリピンのミンダナオ島西部、タイ南部、コートジボワール、タンザニア、ケニア、スーダン、中央アジア、チェチェン、旧ユーゴ、インド・パキスタン国境である。つまり、「文明の衝突」ではなく現実問題として、イスラム教徒と異教徒の接点で紛争が発生しており、その余波がテロに繋がっている要素が非常に大きいといえる。イスラム教徒の人口を見ると、インドネシアでは2億1,400万人中1億8,900万人で圧倒的多数派、マレーシアでは2,390万人中1,430万人でほぼ多数派、フィリピンでは8,700万人中430万人で少数派、タイでも6,540万人中300万人で少数派、ミャンマーでも4,300万人中170万で同じく少数派、カンボジアでも1,360万人中70万人で少数派、シンガポールでも440万中66万人で少数派、ブルネイでは36万人中25万人で圧倒的多数派となっている。地域紛争が発生するところでは、少数派が多数派に反乱をしており、フィリピンの場合には、人口の87%を占めるカトリック教徒に対するイスラム教徒の戦いになっている。タイの場合には、仏教がイスラム教徒との接点を有するところが南部となる。この接点のアイデアは重要ではないかと考える。
2004年1月から2005年12月までの東南アジアのイスラム系テロの発生状況を見ると、タイは死亡者276人、負傷者785人、誘拐1人である。フィリピンは死亡者307人、負傷者450人、誘拐31人であり、誘拐が多い。インドネシアは死亡者86人、負傷者440人、誘拐0人であるが、邦人1人が2005年10月にバリで亡くなっている。マレーシアは死亡者0人、負傷者2人、誘拐者0人と、テロという意味では安全といえる。
フィリピンのイスラム教人口は、ミンダナオ西部に追いやられたマイノリティーである。1970年代に、中東で留学していた者が帰国し、マドラサと呼ばれるイスラム学校や自分達の組織を作ると同時に、サウジアラビアからの資金が流入した。フィリピン中央政府も、イスラム教徒を無視したり弾圧したりして、失策を続けた。現在、同国で問題になっているのは「モロ・イスラム解放戦線」(MILF)、アブ・サヤフ・グループ(ASG)、ジャマ・イスラミヤ(JI)の一部である。また、中東でイスラム教に改宗した改宗組もおり、首都マニラでテロを計画した(事前に摘発・阻止された)。現在、MILFは中央政府と和平交渉を行っており、日本政府も、豪州、スウェーデン、米国、リビア、ブルネイとともに和平プロセスに参加している。
テロはミンダナオを中心に発生したが、最近は沈静化している。2000年3月及び4月、マレーシアの島において欧州の観光客がASGに誘拐された。その際、欧州各国政府が身代金をリビア政府経由でASGに支払ったことにより、勢い付いたASGが更に外国人の誘拐を行うという悪巡回が生じた経緯がある。大型テロでは、2004年にマニラ沖で大型フェリーが爆破・沈没される事件、2005年にマニラ首都圏、ミンダナオのダバオ市、ジュネラルサントス市で爆破事件が発生している。NPAという共産ゲリラ組織も活動しており、90年代に分裂した後、地域ごとに武装グループが活動しているとされる。なお、ミンダナオ中部の元NPAグループは、MILFと共同作戦を行っているとの分析もあるが、真相は不明である。
ミンダナオ問題の解決がテロ問題の解決になると分析している。ミンダナオ問題では、第一にイスラム教徒とキリスト教徒の棲み分けが問題となるが、容易に解決できないので、問題の解決よりも復興を優先するというのが大勢の考え方である。これがアロヨ政権の方針であり、日本政府もこれを支援している。第二に、ミンダナオに自治区を持ち、MILFの前身であるMNLF(モロ民族解放戦線)とMILFの棲み分けが問題になるが、5月の総選挙の結果が影響すると考えている。第三に、アロヨ政権の動向も問題となるが、同政権は2003年にMILFと停戦合意を行っており、これを維持する方針である。
タイにおいては、2006年9月19日、軍(主に陸軍)とタクシン前首相の対立によりクーデターが発生し、新政権が樹立された。タクシン前首相は、2004年に南部(ナラディワット、パタニ、ヤラーの3県)に非常事態宣言を発出し、反乱グループとの対話を拒否するなどの強硬路線をとっていたのに対し、スラユッド首相は、11月2日及び8日に南部で謝罪演説を行い、次々に拘束者の釈放を行うなど懐柔策に転じた。 ところが、スラユッド首相の支持率の低下、2006年末のバンコク9カ所における爆弾テロ事件(3人死亡、40数人負傷)、軍内部の分裂、経済政策の一貫性欠如等、様々な問題が発生した。南部の暴力も激化した。2007年1月には、武装グループが24歳の仏教徒の女性教師を殺害したのに対し、シリキット王妃が過剰に反応して、葬儀が国葬なみとなり、一般のイスラム教徒がこの特別扱いに反発する事態になった。2月18日~19日の旧正月には、南部全体で連続爆弾テロ事件が発生し、ホテル、カラオケバー、ショッピングセンター、商店、自動車ディーラー、ゴム工場の計37カ所が爆破された。なお、南部においては2006年11月に81人が死亡、12月には78人が死亡、2007年1月には78人が死亡、2月には54人が死亡した。殺害方法としては、頭部の切断、焼身、射殺、仕掛け爆弾が挙げられる。先週には、ヤラー県の一部に夜間外出禁止令が出された。
バンコクでの爆弾テロ事件には、人を殺害するために行ったのではないと推測できる状況もあり、その背景を巡っては様々な見方がある。タイ政府は、タクシン前政権が現政権を脅かすためにテロに及んだと主張するが、選挙を行えばタクシン前首相が勝利する可能性もあるので、テロを行って自分達の身を狭める必要性はないのではないかとの見方がある。背景に軍内部の分裂があるのではないかとの見方もあるが、軍がテロを行えば自らの首を絞めるようなことになる。また、同テロ事件が王室を巡る争いではないかとみる向きもあるが、これも考えにくい。最後に、南部の武装グループが「その気になればバンコクでもテロを行える」とのメッセージを出すために、テロを行ったとの見方もある。自分には、バンコクで用いられた爆弾を見ると南部の爆弾と作り方が似ているので、南部の武装グループが関与したのではないかと考えるが、いずれにしても犯行主体は不明である。
南部におけるテロの犯行主体については、BRNC(Barisan Revolusi Nasional-Coordinate)ではないかと分析する3月15日付のInternational Crisis Group報告書があり、自分は信用度の高い分析であると考えているが、同報告書においても、BRNCの指導者は不明と結論づけられている。BRNCは、分散して行動しマレーシア北部に結集しているとの噂もある。BRNCは、タイ政府を標的にするとともに、最近ではイスラム系住民と仏教系住民の対立を目指す攻撃が目立っている。10月に予定されている総選挙後の政権が、南部の沈静化を達成できるかという問題もあるが、実現は難しいとみられるので、混乱はしばらく続くと考える。結論的には、やはりタイ南部の分離主義問題の解決が、テロ問題の解決に繋がるのではないか。
インドネシアはイスラム教徒が大多数を占める国であるが、東部地域のマルク諸島やパプア州にはキリスト教徒住民がおり、そこで紛争になった経緯がある。また、ヒンズー教徒住民がいるバリ島がテロの標的になっている。爆弾テロの規模は大きくなってきており、その件数は98年に4件、99年に4件、2000年に11件(この年から教会が狙われるようになる)、2001年に9件、2002年に11件、2003年に11件(この年からポソを中心に爆弾テロ事件が発生している)となっている。テロの主犯はジャマ・イスラミヤ(JI)である。JIの中にも武装派と非武装派があり、武装派はアフガニスタン戦争からの帰還者が参加したことにより活発化していった。JIの活動はジハード、布教、教育、商売であるが、ジハードは2005年11月の摘発によって沈静化しているように見える。
JIの関係者にインタビューしたところ、その思想はイスラムへの完全な服従(平和の世界)と非イスラム(戦争の世界)という2分した世界観から成っている。そして、非イスラム(ユダヤ教、キリスト教、仏教、ヒンズー教、神道等)の中で「攻撃的」なグループは、反イスラムとみなされジハードの対象になる。日本もその中に含まれる。「攻撃的」の意味は、(i)代議制などの西欧思想を普及させること(法は神が作るもの)、(ii)退廃した文化を普及させること、(iii)自由主義経済を普及させること(貧富の格差を助長することはイスラム的ではない)であり、ジハードの攻撃をしなければならない時は(i)攻撃された時、(ii)支配され苦しむ時、(iii)敵がイスラム地域内にいるとわかった時、(iv)リーダーにより命令された時である。攻撃には(i)標的の選定、(ii)目的の明確化が必要とされる。なお、攻撃はイスラム教徒を助けるためのものであり、その結果死亡した「兵士」は天国へ行くと述べていた。
JIの組織は4層から構成されている。第一層は、例えばバシール導師のような過激イスラム導師で、イスラム教義を用い、「十字軍同盟」と暴力で戦う正当性を与えている。第二層は司令部群で、ズルカルナイン、アブ・ドゥジャナ、アザハリ(死亡)、ヌルディン・ムハマッド・トップ、ドゥルマティン、アブ・ファティなど、アフガンやミンダナオで経験を積んだ20人程度である。ヌルディン・ムハマッド・トップが最も危険とされているが、行方不明の状態である。第三層はロジスティック担当群で、爆弾の調達、爆破用レンタカーなどの手配、隠れ家やアジトの手配、携帯電話の手配、メンバーの送迎などを行う。ただし、各メンバーはお互いに知らない者同士であることが多い。第四層は自爆犯候補群で、過激思想に感化された若者(最高20代)から成り、JIリーダーに殉死の必要性を説得された者である。自爆の数週間前にリクルートされる。
JIの標的は、第一に米国とイスラエル、第二に英国、第三にオーストラリア、第四にイタリア、第五にタイ、フィリピン、第六に日本である。日本も標的とされているが、順位は低い。
JIの自爆攻撃について説明する。今のところ、発生しているのはインドネシアだけであり、2002年にバリ、2003年及び2004年にジャカルタ、2005年にバリで発生した。殺害率は通常攻撃の13倍であるとされ、かつ比較的コストが低く、数万円で小型爆弾が製造可能、数十万円で大型爆弾が製造可能である。準備や進入も容易、逃亡経路も必要ない。ただし、「行く先」が明確である必要があり、最近ではDNA検査等で自爆犯の特定も可能になった。
東南アジアのテロには2種類ある。1つは欧米に対する攻撃で、思想に裏付けされた非常に強固なものであり、ジャマ・イスラミヤ系のグループ、ASGの一部、MILFの一部が行っている。もう1つは中央政府に対する攻撃、すなわち分離主義運動であり、タイ南部やMILFが該当する。問題は、欧米に対する攻撃と中央政府に対する攻撃が重なる部分であり、解決は非常に難しい。
まず、欧米とキリスト教に対する攻撃は継続するとみられる。これはイラクの動向によっても左右され、仮に米軍がイラクから撤退すれば、同国から「勝利」した多数の過激派が出身国に帰国することになり、その勝利によって過激派が勢いづくことになる。他方、米軍が撤退しない場合でも、米軍等のイラクへの介入に反発する過激派の活動が継続することになり、どちらに振れても良いことにはならない。また、イスラム教徒の犠牲が少ない方法、政治的にアピールできる標的が選択され、突発性でアピールするために爆弾が使用されることになろう。もう1つの中央政府に対するテロ攻撃は、対テロ政策と懐柔策の行方に左右される。タイは大混乱の最中にあり、フィリピンでも不満分子はでてくるとみられる。
残念ながら、テロを正当化する理由と要素は非常に多い。まず、イスラム教徒の苦難の仕返しとイスラム防衛のための敵の殲滅という、非常に重要な大義名分があり、ビン・ラーディンを中心とするシンボルがあるので、この正当化する理由をもとに行うテロなかなか無くならない。他、非常に怖いのは救世主主義で、イランを中心とするシーア派に多いが、スンニー派にも信奉するグループがある。同主義には、救世主が出現するので、又は救世主が既に出現したので戦うというグループもあれば、救世主を待つために今の世界を滅茶苦茶にしようというロジックもあり、これは、オウム真理教のようにCBRN(化学、生物、原子、核)テロに繋がり得る考え方である。さらに、当局に弾圧されたので、その仕返しのためとしてテロを正当化するケースもある。
テロを実行するのに必要な要素・能力として、(i)資金調達(それほど困難ではない)、(ii)イスラム教徒の支持、(iii)美学を貫徹すること(犠牲者の映像はマイナス、「美しく」ない)、(iv)武器、弾薬、火薬等の調達(CBRNはまだだが時間の問題)、(iv)武器の製造(アフガニスタン、ミンダナオ、マルク等での紛争経験者)、(v)当局の摘発から逃れる、うまく隠れて計画、実行すること、(vi)永久に社会にショックを残すための手法、標的の選択が挙げられる。
邦人が海外で遭遇した事件・事故の大半は、未然に防ぐことができたものだ。事件現場を見たり、関係者から当時の状況を聞くと、多くのケースにおいて、被害者の不注意や基本的な防犯対策の不備が原因であることが分かる。同じ都市で、ほとんどの人達が無事に生活や仕事をしていることを考えると、事件や事故の原因の大半は被害者である個人や企業の側にあるという見方も出来る。さらにいえば、そのような個人や企業を育てた「安全教育」にも問題があるのではないか。
安全教育を開始すべき時期は、海外赴任直前でも入社時でもなく、人として「物心が付いたとき」だ。個人差もあるだろうが、4~5歳になれば安全教育は十分可能だし、そのころから開始すべきだと思う。格好の教材は童話や昔話だ。「三匹の子豚」は、安全対策を怠った者は泣きを見ることを教え、「ヘンゼルとグレーテル」は、親による子捨ての問題、道に迷わないための知恵、身を守るためには、敵と戦わなければならないことなどを教えている。「さるかに合戦」など日本の昔話も、「だまし」「いじめ」「仕返し」など安全教育に役立つエピソード満載だ。それらの底流に流れるメッセージは、「善意だけでは世の中を渡れない」というハードな現実だ。一方、教育や出版の現場を見ると、「教育上良くない」とか「差別的表現」等の理由から、童話を含む古典文学作品の文章一部削除や改作、あるいは本そのものの絶版を求める運動がある。また、一部の小学校では、徒競走で全員に一等賞を与えているなどの話も耳にする。皆それぞれに理由があるとは思うが、そのような現実から目を背ける行為が、安全意識の希薄な若者を作り出す原因のひとつにになっているのではないか。国内で稚拙な詐欺にひっかかったり、海外で犯罪被害に遭ったりする人達は、もしかしたら、幼い頃に受けた不適切な教育の犠牲者なのかも知れない。
私は、毎年日本企業の海外拠点を巡回訪問して、駐在員及び帯同家族に対して安全指導を行っている。その中で、駐在員の奥様に、「もしあなたのお子さんがショッピングセンターで子供が迷子になったらどうしますか?」という質問をすることがある。それに対してほとんどのお母様方は「血眼になって探します」と答えるのみで、それ以上の対策を持っていない。このようなお母様方への私の助言は、まず第一に、子供のシャツのズボンやスカートに隠れる部分に、親の携帯電話番号をマジックで書いておくこと。第二に、子供に対して、「もし迷子になったら、お店の店員さんのところに行って、シャツに書いた携帯電話番号を見せて泣きなさい」と教えること。ここでのポイントは、救いを求める相手は「店員さん」であって、どこの誰だか分からない「お客さんや通行人ではない」という点だ。このぐらいのことなら、何度も繰り返して教えれば、3~4歳の子供でも覚えられる。安全は親だけが守るものではなく、親子が一緒になって守るものだ。
海外赴任者に帯同する子供達の大半は18歳未満だと思うが、多くの国において、この子達は、保護者の同伴無しに外出することを許されていない。海外での誘拐、強盗、麻薬などのリスクを考えると、このことは間違いではない。しかし、もし交通事故で親が死亡もしくは重傷を負って、子供だけが無傷で残された場合、その子は事態に適切に対処できるだろうか。また、15歳にもなれば、親の目を盗んで1人や友達と連れだって外出する可能性は少なくないし、むしろそれは健全な成長の証しともいえる。このような現実を踏まえて、親は、子供達を単に保護下に置くだけでなく、一緒に外出する際や自宅での親子の会話の中で、「こういう時にはこうするんだよ」というような実際に役に立つ安全教育を施すべきだと思う。また、月に1回日曜日に各家庭で「家族安全対策会議」を開き、ここに年齢を問わず子供達を全員参加させることも有効だ。小さい子供は、想像以上に親の話を理解しているものだ。
企業内の安全教育にも、まだ足りない部分がある。最近では多くの企業で、海外赴任者に対して赴任前の安全教育を行っているが、大半の企業においてその内容は、「襲われても犯罪者には抵抗するな」といった個人レベルの安全対策で、「企業管理者としての安全教育」を施している企業は非常に少ない。「事務所強盗」「製品窃盗」「脅迫」「社員の不正行為」等、その種類を問わず、企業の海外拠点で発生する事件や事故のすべてが、何らかの「マネジメントの欠陥」に起因している。この世の中に「ミスをしない人」「怠けない警備員」「会社に100%忠実な社員」などは存在しない。企業経営者の仕事は、「不完全な人間を使って完全を目指す」ための「管理システム」を構築し運営するところにある。ところが、企業の海外現地法人の日本人幹部で、赴任前に、工場や事務所の安全管理に関する教育を正式に受けた人は、ほとんど皆無に等しい。もちろん中には、海外で素晴らしい安全管理をしている方もおられるが、それはたまたまその人が素晴らしかったというだけの話だ。
海外でお会いする駐在員の方々、中でも単身赴任中の駐在員の方々の多くが強いストレスを抱えている。本社からは「売り上げ目標の達成」や「コンプライアンスの徹底」などの圧力がかかる一方、現場では、「何度言っても分からない現地社員」や「賄賂を払わなければ動かない官僚システム」などに悩まされている。たまにストレスを発散しようにも、カラオケバーへの出入りを本社から禁止されている会社もある。このような状態では、心身の破綻を防ぐための防衛本能が働き、「無気力」「無関心」「問題先送り」等が出てくる危険性がある。不幸な人に他人を幸せにすることは出来ない。海外駐在員の方々は、心身ともに健康でなければならない。いくつかの企業に見られるように、社内カウンセリング制度を設けることも有効な対策だと思うが、私はこの問題への対策として、「休暇を与えること」を提唱したい。海外駐在員の待遇で、日本と欧米企業の間での最も大きな差は、実質的な休暇の有無だ。もちろん各企業には休暇制度があるが、現実的にはほとんど休暇が取れないのが現状だ。欧米企業のように、年間30日もしくは、半年ごとに2週間の休暇を取ることを義務づけるべきだと思う。こうすることにより、心身ともにリフレッシュして、様々な困難に前向きに対処する活力が戻ってくると思う。
中国において日系企業は様々なリスクに囲まれているが、その内の重要な一つが歴史問題であることは言うまでもない。しかし、現実に多くの日系企業に起きている「社員と業者の癒着」「製品横流し」「知的財産権の侵害」「労働紛争」等、ビジネス関連の問題は、その大半が歴史問題や反日感情とは全く無関係のものであり、それらの根本原因はマネジメントの欠陥である。言い換えれば、中国でもマネジメントをしっかりやれば多くの問題を回避できるのだ。日本と違って、中国に対する遠慮や思い入れの少ない欧米企業は、中国を単に民度の低い発展途上国のひとつと見なし、社員や業者の不正を早期に発見するための巧妙なチェックシステムなど、海外経営を通じて自らが確立した、効果的な管理手法を導入している。さらには、「なぜ会社のものを家に持ち帰ってはいけないのか」「不正行為をすれば、その結果は自分にはね返ってくる」というような基本的なことを、社員に対して辛抱強く、かつ徹底的に教育している。そうすることで、労働の質が上がり、会社の業績が上がり、社員の給料も増える。さらには、社員として大事にされているとの感覚が生まれることで、会社への求心力が高まる。中国における日系企業のマネジメントは、欧米企業と比べてまだ甘いと思う。
最近、鳥・新型インフルエンザへの対応について、企業から問い合わせ受けることが多いが、その際に私がする最初の質問は、「もしパンデミックになったら、全ての業務を完全に停止することが出来ますか、それとも、そのような中でも続けなければならない業務がありますか」というものである。企業の業務の中には、水道、電気、ガス、通信、金融など、社会活動の維持のためには一瞬たりとも止めてはならないものがある。その一方で、経営上大きなマイナスではあるが、たとえ一時的に業務を停止しても、社会活動に大きな支障を来さないものもあるだろう。各企業の業務がこのうちどちらに属するかによって、その企業の対策の大枠が決まってくる。前者の場合は、職場で業務に携わる社員の健康と安全の確保が対策の中心であり、後者の場合は、社員の安全な場所への避難や隔離が中心となる。多くの企業において、この二つの組み合わせになるだろう。
実際のところ、鳥・新型インフルエンザは起こってみないと、何が起こるのか本当には分からない。WHOの定めたフェーズに合わせて日本に退避することを計画していても、日本で先にインフルエンザが蔓延するかもしれない。新型インフルエンザの感染スピードが予想以上に速く、帰国しようとしたときには出国が禁止されているかも知れない。種類を問わず、有事対応計画の策定に際して重要なことは、「物事は計画通りには行かない」という前提に立ち、当初の計画が崩れた、「最悪の事態」に備えておくことだ。新型インフルエンザ発生時における最悪の事態とは、発生国からの出国が禁止される一方で、その国の病院は満員で、入院はおろか、満足に治療を受けることすら出来ないという事態だろう。このような事態においては、自宅での籠城が基本だ。それ以前に、インフルエンザが蔓延すると、自宅から外出できなくなることが想定される。そのような事態に備えて、自宅に最低でも3週間分ぐらいの水、食糧、医薬品、防護マスク等を備蓄して、とりあえず生活できるようにする。その上で、更なる対策を考えるべきだと思う。また、どこの会社も、一社単独でビジネスをしているわけではないので、新型インフルエンザへの対応計画は、関係する企業と一緒に策定しなければ意味のないものになる。
「海外でどのようにして身の安全を守るのか」という問いに対しては、3つの観点からお話したいと思う。第一は、安全の基礎知識を学び、実行することだと考える。コントロール・リスクス・グループ社は、世界各国のリスクを5ランクに分けて評価している。それによれば、日本は最低の1ランクだが、同じく1ランクであるのは、主要国ではニュージーランド、シンガポール、ノルウェー、スウェーデンぐらいである。自分は、海外赴任者に対し、「海外には危険が多いので、気持ちをしっかり切り替えて赴任して欲しい」と話している。海外で安全な生活を送るには、自分と家族の安全は、自分達で守るとのセルフディフェンスの精神が大切である。また、安全の三原則「目立たない、行動を予知されない、用心を怠らない」も念頭に置いて行動して欲しいと話している。なお、安全の基礎知識を得るための教材として、「外務省 海外安全ホームページ」の中の「海外安全劇場」や「海外邦人事件簿」をお勧めする。
第二は、特に滞在国・地域に特有のリスクがあれば、その予防や有事の対応をよく学ぶことである。伊藤忠商事は、新型インフルエンザの発生が危惧される地域について、インフルエンザの予防教育、生活必需品の備蓄、避難に備えてのオープンチケットの手配、旅券や査証の有効期限確認等を行っている。万一、新型インフルエンザが発生した場合には、家族や希望者の一時帰国、当該地域への出張禁止等の段取りを検討している。他方、事業の継続を図るということも重要な任務であり、重要な業務の特定、担当スタッフの選任、在宅勤務の方法、顧客との事業継続対策等について検討を進めている。 。
中国におけるリスク対策として、交通安全やトラブル回避に取り組んでいる。交通安全については、一般道においては時速80km以上の走行はしない、後部座席ではシートベルトを着用する、飲酒運転をしないという交通安全三原則を定めている。これは中国に限ったことではないが、中国に限ったことでは、都市から150km又は2時間以上の走行を行う場合には社有車や信頼できる運転手によるレンタカーを利用する、そのような地域では夜8時以降は乗用車を運転しない、都市でタクシーを乗るときにはよく前方を見る、という対策をとっている。トラブル回避については、外国では自らの立場をよく認識することが大切である。日中間では歴史認識に大きな違いがあり、その違いや背景を認識する、相手に対して経緯を以て接するということが、良きビジネス関係を築くことになる。外国人が現地で上手くやっていくには、現地の法律やその運用状況、習慣を守るということが、最も重要だと考えるので、それらを良く学んで欲しいと駐在員に言っている。
テロについては、社内で5つのテロ基本対策を決めている。それは、緊急連絡網を最新にしておく、居場所を明確にしておく、現地の在外公館と連携を密にして情報の入手を怠らないようにする、危険な場所に近づかない、普段と異なる危険な兆候に気づくようにする、である。昨年末、タイのバンコクで連続爆弾テロがあった。これに対して、外出を控えること、人出が多いところには近づかないこと、不審なものが隠されていそうなゴミ箱や電話ボックス等に警戒すること、警備がしっかりしたホテルやレストランを利用すること、といった注意喚起を出した。年末年始であったが、現地の大使館からスポット情報が発出され、的確な対応ができた。
第三は、企業の安全担当者の任務である。これには3つあり、1つ目は社員や経営のトップとリスクに係るコミュニケーションを盛んに行うことである。今月7日日本時間午前9時半頃、インドネシア・ジャカルタの空港でガルーダ機が着陸に失敗して炎上する事故があった。邦人2人も搭乗されていて、奇跡的に助かった。事故を知ってジャカルタの駐在員に連絡をとって安否確認を行っていた間にも、社内から事故の情報提供を行う親切な電話等がひっきりなしに掛かった。午前10時頃、最終的に伊藤忠商事の社員や顧客は乗り合わせていないことが分かったので、経営のトップや関係者に連絡するとともに、情報の共有の観点から全社員に分かるようイントラネットに掲示した。日頃からのリスク・コミュニケーションが奏功した好例であると考えている。
2つ目はコンサルタント・専門家の知恵や経験、他社の安全担当者の情報を活用することである。そのためには、日頃から人的なコネクションを構築しておくことも必要である。自分の場合には他社の担当者との意見交換が役に立っており、日本在外企業協会が定期的に開催する勉強会等にも参加している。また、欧米企業がとっている安全対策も参考になる。
3つ目は、リスクの変化に適応できない人をサポートすることである。安全対策には概して個人の性格が出やすく、細かいことまで気が回らない人は、事件や事故に遭いやすい面があると思う。自分は、海外安全邦人安全協会から頻繁に送付される、現地の在外公館で開催された安全対策連絡協議会の報告や、現地の在外公館の定期報告をなるべく駐在員に送付し、「心配しているから、気をつけてね」というサインを出すようにしている。
最後に、海外でどのようにして身の安全を守るのかについて一言で言えば、的確な情報、リスク・コミュニケーション、アクションではないかと考える。
海外赴任の当事者ではない妻たちに、果たしてどれほどの安全教育が行われているのか。日本で海外赴任を控えた妻に対する教育としては、2パターンがある。1つは自社教育。体力のある大手企業はノウハウもありマニュアルも確立していて、自社でセミナーを実施できる。他方、まだまだ駐在員の数が少ないか、年間に1人赴任するかしないか、あるいは、様々な地域に社員を派遣しているために1カ所ずつのノウハウが足りない企業は、セミナーを外注している。私もこの外注のセミナーの講師を引き受けているが、海外赴任者の妻たちの最大の関心事は、子供の教育であり、そのため、妻向けのセミナーは教育問題が中心になる。その次に予防接種、風土病、現地の水等、健康の問題がくる。その次は、異文化不適用の問題である。このため、妻向けのセミナーにおいて、山崎様が重要性を指摘された安全教育がメニューになかなかなりにくいのが実態である。
代表的な外注のセミナーは、日本の大手航空会社2社が、「海外生活セミナー」と題して開催している。某航空会社は、海外進出企業の先頭に立つ責任という観点から、または社会貢献という観点から、40年間月一度のペースでセミナーを開催し、莫大な人数の海外駐在員の妻の教育を引き受けてきた。私のコマはメンタルヘルスであり、セミナーには危機管理を扱うコマがない。そこで危機管理についてもコマを設けて欲しいとお願いしてみたが、安全を詠う企業なので、安全でない話は扱いにくいという答えだった。特定の企業が、社会貢献を目的として行う場合には、確かに納得のできる理由でもある。かくして、安全教育はなかなか浸透しずらいとなる。
妻の側からすれば、安全の問題は夫の仕事である。夫が情報を取ってきて、かいつまんで必要なものだけ教えてくれればいいというのが、妻の姿勢である。では夫はというと、安全については企業の人事(課)が自分の赴任に必要なところだけかいつまんで教えてくれよ、という姿勢である。このように、妻や子供に、なかなか安全の話が届かないというのが現状だと思う。マニュアルをみれば、「目立たない」、「行動を察知されない」、「用心を怠らない」、「セルフディフェンス」といったキーワードが並んでいるが、海外での生活で具体的に何をどうすればよいのか、情報として全く出てこないというのが妻たちの置かれた状況である。
次に、事件や事故が発生した際、旅行者、ワーキングホリデー、ビジネスマン等の人たちの対応と、郊外のアパートに住みながら子供を学校に送り、地域に交わって暮らす妻たちの対応には当然差があるが、その差に関する情報がなかなか伝わってこない。例えば、インドネシアの暴動の際には、午前11時に外務省が危険情報「退避勧告」を発出し、その日の午後7時のフライトに搭乗することが在留邦人に言い渡された。11時から7時までの間に何をすれば良いのかという問題が突きつけられ、妻たちは荷物をまとめ、学校から子供たちを引き上げて空港に急ぐというようなことになるが、そうするための退避対策情報がなければうろたえることになる。テロや騒乱等の際に妻たちが自身で対応するための情報も、必要になると思う。
実際に駐在生活で起こり得る実例をいくつか紹介する。駐在中の一時帰国や大型連休によって長く住居を離れた際に、空き巣が入ることがある。留守宅の管理は、海外安全マニュアルの気をつけるべき事項に含まれていないことが多く、さてどうすればいいのか分かりにくい現状があるように思える。赴任前から気をつけるべき点について大体の勘所を持てるよう、現地の情報をよく妻たちに伝え、そして詳細は現地に行ってから、例えば隣が外出するときに電気を付けていったのを見習うというようなことが、学習になっていくのだと思う。
日本で賊が学校に侵入して子供を殺傷するような事件が発生しているが、海外から帰国した妻たちに印象を聞くと、概ね「日本では確かにあのような事件は起こるかもしれない。他方、自分が居た国では、あのような事件が起こる仕組みにはなっていない」との反応が返ってくる。例えば私が滞在していたNYでは、学校の扉がオートロックになっており、外から開けられないようになっていた。また、学校から子供たちを一人で帰宅させることはなく、学校の送り迎えは親の責任となっていた。日本の親の中には日本の感覚で子供の監督義務を怠ることがあり、お咎めを受けるケースがたまにあった。このように、自分たちが間違いを犯して相手社会から誤解を受けるような事例についても、情報が必要である。
最後に、9.11(事件)の後に、セミナーを受講していた200人程度の赴任予定の妻たちに、「これからニューヨークに転勤される方と聞いてみると、5人ほどが手を挙げた。その5人の方に「怖いですか」と聞くと、1人の方は、「夫が9.11を受けて会社に対策を聞くと、『大丈夫、心配することはないって』との回答だった。夫は、『あのような事件が起きてもまだその程度の認識しか持っていない会社にいてもろくなことがない』と言い、今転勤を辞める方向で会社と話している」と述べた。結果的に、その方は会社を辞めた。その他の4人の方は、「9.11は事件ではなく事故です。自分達には起きません」との回答だった。このように、妻たちや子供たちには現実がなかなか伝わらないと思った。 企業の担当者には、妻への配慮も是非求めたい。また、妻が不安定であったり、妻と子供が心配で仕事が手に付かないというような状態で駐在を始めると、夫の仕事にも影響が出るので、是非そのあたりのカバーもお願いしたい。
長谷川さんより言及のあった緊急連絡網は、各地の在外公館も現地の企業に整備を奨励しているもので、緊急時に大使館や本社からの情報を伝達するために不可欠なものだ。私の見る限りでは、かなりの数の企業でこの仕組みは整備されている。他方、逆方向の仕組みは未整備な企業が多いようだ。「逆方向の仕組み」とは、交通事故発生、自宅への不審者の侵入、単身赴任者の急病、警察による不当逮捕など、駐在員や帯同家族に不測の事態が発生した際に、直ちに助けを求める仕組みのことだ。本社からの一方通行の緊急連絡網だけでは不十分で、駐在員や家族が困ったときに相談したり、救いを求める相手を作っておかなければ、いざというときに困ることになる。外国での問題への対処には、その国の人、すなわち現地社員の協力が不可欠だ。もし、日本語の堪能な現地社員がいない場合には、日本人が間に入る必要があるだろう。しかも、この仕組みは、24時間365日いつでも確実に機能するものでなければならない。一見困難なように見えるが、「何人かで当番制にする」「グループ企業間で仕組みを共有する」など、工夫次第で方法は見つかるはずだ。たとえ困難であっても、これなしに駐在員と帯同家族の安全は確保できないものであるから、まだ未整備の企業は、万難を排して整備を急いで欲しい。
最後に、今流行のコンプライアンス(法令遵守)についてであるが、もちろん法令遵守は企業行動の基本中の基本で、企業防衛の観点からも十分に浸透が図られるべきである。しかし、法律法令を遵守さえしていれば国家や社会が企業を守ってくれるわけでは必ずしもないのが現実だ。いまだに多くの国において、賄賂は必要悪として存在している。これらの国では、輸入通関、ビザや各種免許の取得、建築許可取得などに賄賂がつきものだし、警察官、税務署員、環境基準監督員などが、相手の弱みにつけ込んで賄賂を要求する事例も珍しくない。このような国に勤務する駐在員は、コンプライアンス・ルールと現実との狭間で苦しんでいる。本社は、海外駐在員にルールに従うことを要求し、それに反したものを罰するだけでなく、「ルールに従うこと」と「会社業務を円滑に推進すること」が両立しない状況において、現実的な対応策を助言する機能を備えるべきである。このような機能を提供せずに、罰則の脅しとともに、本社がコンプライアンスを厳しく求めすぎると、駐在員はルール違反を隠すようになる。また、本社はそれをうすうす知りながらも、見て見ぬふりをする。そのようにして、コンプライアンス体制は徐々に崩壊していく。これは、単なる「可能性」ではなく、すでに起きている現象だ。コンプライアンス体制は、企業トップが社員に押しつけるものではなく、トップが社員とともに苦しみ、悩みながら、一緒になって作り上げていくものだと思う。
山崎様の話への補足として、海外で駐在員の家族が何かに巻き込まれた際に、それを会社に言わないということの実例を紹介する。赴任後に前任者の住居を引き継ぐことはよくあることだが、実は周辺の住人の移り変わりによって環境が前任者の時とは異なることがある。アパートの階下の住人がかける音楽がうるさいため、駐在員の妻がラジエーターをバットか何かで叩いて抗議した。すると、階下の住人がハンマーを持って駆け上がり、彼女の家のアパートのドアを叩き破った。彼女は怯えて日中家にいることができなくなり、ご主人に相談したところ、「前任者の時に何もなかったのに、我が家で何かあったとなると、俺の将来のキャリアに響く。我慢してくれ」と言われたようである。結果的に、妻はストレスで身体を壊し、病院に通うようになった。
また、社用車で交通事故を起こした際、会社に事故のことを言わずに、秘密裏に相手の乗用車の破損箇所を焦って修理し、事なきを得ようと、「修理代は保険会社を通さず、直接請求してくれ」と言ったがために、相手側は弱みを握り、小さな接触事故であったにもかかわらず、不必要な塗装まで行い、何百万円という請求書を送り付けてきたケースもある。
つまり、会社が駐在員のトラブルのよき窓口であればよいが、そうでなければ、会社の外に相談できる受け皿を設けることが必要ではないかと思う。
緊急連絡網に関して、携帯電話への依存は危険であるということを付け加えたい。携帯電話は非常に便利であり、生活で幅広く使用されているが、緊急時においては、携帯電話が繋がらなくなることを覚悟する必要がある。なぜなら、緊急時においては、携帯電話のインフラが破壊されたり、電話が殺到して回線がパンクする可能性等が考えられるためである。特に通信手段は緊急事態に重要なので、投資を惜しんでいただきたくない。
緊急時に最も頼りになるのは人である。知っている人に、行き先を告げる等の心掛けを行っていただきたい。携帯電話よりも安定しているのは、固定電話やファックスである。これを必ず携帯電話のバックアップとして持っておくことが大切である。